ヨーロッパの旅が基本テーマですが、ヨーロッパに関係する文化、歴史、飲食、何でもそろうテーマです。
国石 ヒスイの古代史(翡翠)(4)縄文中期 工房・匠の技から生まれる大珠(たいしゅ)北・東日本に流通
前回記事(3) www.zero-position.com 糸魚川でヒスイの大珠(たいしゅ)が造られ始め、北日本、東北、関東に広がっていった様子を紹介。 ヒスイ工房遺跡(寺地遺跡、長者ケ原遺跡(記事後半)) 希少な糸魚川のヒスイ(硬玉)産地を流域に持つ、青海川・姫川周辺には、9ケ所の縄文中期遺跡が発見されている。 このうち、海沿いの寺地遺跡(石斧とヒスイハンマー利用の大角地遺跡に直近)、段丘の長者ケ原遺跡でヒスイ大珠の加工跡が見つかっている。 ヒスイ工房遺跡と判断できるのは、大珠の完成品が少なく、加工用の石器や半製品が多数出土しているから。 長者ケ原考古館 ビデオより(糸魚川市周辺の縄文中期遺…
ものづくりとことだまの国
国石 ヒスイ(翡翠)(3)縄文中期(約5,000年前)からの大珠(たいしゅ)ブーム
前回記事(2) www.zero-position.com ● 約7,000年前(縄文早期)、石器の加工用ハンマーとして始まったヒスイ(大角地遺跡) (写真、左:新潟県埋蔵文化財センター資料より、右:Wikiより) たたき石と原料(蛇紋岩)磨製石斧 磨製石斧(ませいせきふ)は、柄に縄で巻きつけて、木を伐ったり加工したりするのに使う石の斧(おの)のこと。 縄文時代、日本海側から発展した(大型)木造建築技術を支える道具。用途に応じていろいろなカタチやサイズがあったものと思われる。 大角地(おがくち)遺跡(糸魚川市の海岸近く)では、硬いヒスイで蛇紋岩(じゃもんがん)を叩いて荒削りし、最後に磨き上げて…
ものづくりとことだまの国
前回記事(1) www.zero-position.com ヒスイのざっくりした歴史(フォッサマグナミュージアム(糸魚川市)展示・資料をもとに加筆作成) ● 約7,000年前(縄文早期)、石器の加工用ハンマーとして始まったヒスイ(大角地遺跡)(前回) ● 約6,000年前(縄文前期)、小竹貝塚(※記事末)で緑の美しい垂飾り(たれかざり)という「玉」として使われたのを始まりに、 小竹貝塚 最古級ヒスイ加工品 垂飾り ● 約5,000年前(縄文中期)、ヒスイ大珠が造られ始め、北日本・東北、関東中心に流通 ● 約3,000年前(縄文後期、西日本では弥生早期)、ヒスイ勾玉が造られ始め、全国に流通し、 …
ものづくりとことだまの国
「旅行ブログ」 カテゴリー一覧
ヨーロッパの旅が基本テーマですが、ヨーロッパに関係する文化、歴史、飲食、何でもそろうテーマです。
秘湯から有名温泉まで、東北の温泉に関連した話題なら何でも!
百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。平安時代に藤原定家の山荘時雨亭があったと伝わる地で、安土桃山時代末の慶長元年に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が隠棲の地として当山を開いた。歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。
緩斜面の多さで初級者、ファミリーに人気のゲレンデ。超ワイドな鐘の鳴る丘ゲレンデをはじめとして、全体の斜面構成の初中級者だけで約80%を占めるというほど緩やかな斜面が多い。レベルアップを狙う初中級者や子供連れのファミリーには最適なゲレンデだ。また、春のみ実施するへリスキーも栂池の名物的存在。緩やかな斜面を滑り降りる全長14000mのロングクルージングをお試しあれ。また今期も栂池ヒットパークが無料開放されるニュースも見逃せない。
大垣市は、岐阜県の西濃地方に位置する市の一つ。県庁所在地の岐阜市に次いで、県内第2位の人口を擁する。 奥の細道むすびの地・奥の細道むすびの地記念館 住吉灯台水門川遊歩道・四季の路 大垣城 大垣公園 墨俣城 史跡美濃国分寺跡・歴史民俗資料館 明星輪寺 円興寺 開闡寺 明台寺 ソフトピアジャパン スイトピアセンター 加賀野名水公園の自噴水 駅前通の自噴水 曽根城 梁川星巌資料館 大垣競輪場 ロックシティ大垣ショッピングセンター イオン大垣ショッピングセンター 中山道赤坂宿 お茶屋屋敷跡 美濃路大垣宿 美濃路墨俣宿
大垣城は、岐阜県大垣市郭町にある平城。巨鹿城の異名を持つ。最盛期には4重4階の天守と四重の堀を持つ堅牢な構造をしていた。現在では復興天守が建てられ、内部は関ヶ原の戦い等に関する資料館となっている。1500年に竹腰尚綱によって築城されたとされている。織田氏、斎藤氏と支配権が移った後、1583年に豊臣秀吉の家臣、池田恒興が城主となる。その後1596年に伊藤祐盛が天守を造営した。その際に旅の山伏を人柱とした。1600年の関ヶ原の戦いの際には石田三成が入城し、合戦に備えた。その後東軍により落城。そのときの逸話がおあむ物語として残っている。江戸時代に入り、1635年に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となった。明治に入っても破却を免れ、1936年に天守等が国宝に指定されたが、1945年7月29日の空襲により天守が焼失した。現在の天守は1959年に再建されたものである
熊野古道は、熊野三山へと通じる参詣道の総称。熊野古道とは、主に以下の5つの道を指す。多くは、2004年に紀伊山地の霊場と参詣道としてユネスコの世界遺産として登録されたが、紀伊路は登録されていない。なお、これはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路と共に珍しい道の世界遺産である。
松阪市は、三重県の中部に位置し、伊勢湾に面する市である。松阪牛の生産で知られる。気候は比較的温暖。江戸時代は伊勢商人を輩出した商業町であり、現在も紀勢本線・近鉄大阪線・山田線沿線を後背地に持つ三重県の経済拠点の1つである。江戸時代は紀州藩領であった。
離島に関する事なら、何でもトラックバックしてください
プーケット、サムイ、クラビなど、タイのビーチリゾートに関することなら、何でもトラックバックしてください。