巨福呂坂切通し(こぶくろざかきりどおし)鎌倉七口の一つ
鶴岡八幡宮から建長寺へ通じる山道で1240年、北条泰時が自身の所領地である山ノ内への便を目的に開いたもので、鎌倉と武蔵を結ぶ要路で、新田義貞の鎌倉攻めでは大激戦が展開されました。明治初期1898年に新道を拓いた折りに巨福呂洞門の上にあった切通し部分は失われています。 旧道の巨福呂坂はこの新道よりさらに上の場所に位置しており、八幡宮の裏から住宅街の小道を進み、青梅聖天の横を通って登っていく道で、青梅聖天の下には庚申塔や道祖神、供養塔群があり、その先は行きどまりとなっています。 青梅聖天(おうめせいてんしゃ)の名前の由来は、三代将軍実朝が激しい病にかかったとき、仕えの者が時期はずれの青梅を探しまわり、ようやくここで見つけ、これを献ずるとたちまち病が癒えたそうです。 画像はフォトムービーでもお楽しみください・・・・ 神奈川県鎌倉市雪ノ下JR横須賀線、鎌倉..